お茶壺道中

立春を過ぎて、ここ金沢でも光が急に鮮やかになり
冬が終わるという実感が増しています。
ところで、お茶壺道中というもの、聞かれたことはおありでしょうか。
今回は、それにまつわることについて。

お茶壺道中とは

お茶壺道中とは、江戸時代徳川三代将軍の家光が始め
江戸幕府の終わりまで、約200年間続いたとされる
江戸と京を結ぶ行列です。
運んだものは、宇治で栽培及び製茶された碾茶。
抹茶の原料です。
江戸からまず使者が空の茶壺を持ち、
記録によると12日間かけて京に向かい碾茶が詰められ
それをまた同じ日数をかけ江戸まで送り届けていました。
その後、石臼で挽かれ抹茶として飲用されました。

歴史背景

江戸初期は煎茶や玉露の製法は
まだ確立されていませんでした。
鎌倉時代に伝来した抹茶(碾茶)と
各地で日常的に飲用されていた番茶
(チャノキ以外のお茶も含めて)の時代。
当時、番茶は庶民のお茶と言いきっても
過言ではありませんが、抹茶の方は逆でした。
室町時代の三代将軍足利義滿は
宇治に茶を植えさせた後、すぐに宇治に特別の庇護を与え
七名茗園と称する指定茶園を置きました。
その後江戸時代に入ると、碾茶栽培には欠かせない覆下
(茶園を覆い碾茶に向いたものに仕上げるもの)の技術は
宇治郷のみに許されることとなります。
(江戸後期には宇治近在の茶園にも
覆いが認められるようになりましたが
それはあくまで非常時に備えるという
目的から始まったことでした。)
信長も秀吉も、それをとりまく諸大名も
抹茶とそれをとりまく茶器の収集に興じていましたし
その周辺の人々や諸大名も、抹茶を愛飲しました。
このような歴史的背景の中
江戸幕府は、宇治郷の抹茶を誰よりも早くまた高品質で
手に入れたかったのではと想像するところです。

道中のことなど

お茶壺道中について知っていくと
面白いことが幾つかあります。

1 まず、茶壺道中は権威あるものと位置づけられており
茶壺を運ぶ使者が通る前には道が掃除され
行列が通りすぎる間は道を譲らなければならず
住人は田んぼの作業も止めさせられ
顔を上げることも許されなかったと伝えられます。
現代の感覚からすると、まるで劇を見るようですね。

2 また、これほど仰々しいことでしたので
お茶の詰め方にも最新の注意が払われました。
抹茶には、当時から濃茶と薄茶がありましたが
当時、濃茶用と薄茶用の原料は
葉の部位で分けられていました。
具体的には、一芯四葉で摘まれた葉の内でもさらに
二葉目と三葉目のうち、葉脈や葉先と元を除き
中央部の葉肉だけがより分けられ濃茶用とされました。
(現在は葉の部位によって
濃茶と薄茶が作られているのではありません。)
壺に詰める際には、大切な濃茶用を守るため
まず、薄茶用となる碾茶部位を周辺に敷き詰めるようにし
中央には、袋に入れて保護した
濃茶用の碾茶を入れていました。
その後、和紙で封印し羽二重などで大切に包まれ
まるで身分の高い人であるかのように
長棒駕籠に乗せられて運ばれました。

3 このように珍重された碾茶は
収穫、製茶が終わるといち早く江戸に届いたのかと
思うところですが、実際はそうではありませんでした。
昔も今も言えることですが
製茶されたばかりのお茶には
新茶としての価値や個性はあるものの
まだ、勢いが強すぎる…と感じることもあります。
香りと味が一致し、香りが口の中で弧を描くように広がり
口当たりも円やかになるのに、半年から一年程度は必要と
私たちも感じています。

江戸幕府も同じように感じていたのでしょうか。
京を出発した道中は、最初、京都愛宕山にある茶壺藏に
貯蔵して夏を越させていました。
そのため、道中は一度江戸に戻るものの
三ヶ月程してから、再度取りに行っていたようです。
後には、効率化を図るため、中山道の途中にある
甲州谷村に貯蔵されるようになりました。
そしてさらに倹約のため、八代将軍の頃には
江戸までいったん運搬され
江戸城富士見櫓に貯蔵されるようになりました。
徐々に経費削減していったものの
貯蔵して夏を越させるということは
譲れないことだったと伺えます。

4 このように、江戸幕府には
碾茶が確かに届けられていましたが
他に抹茶を嗜んだ人々はどのように入手したのでしょうか。
実は幕府は、自らに送り届けさせる以外に、
京の朝廷にも茶壺を進献していました。
幕府にとって、朝廷にも茶壺を送る使節は
国家儀礼の一端を担うほど大切なものでした。
また各地の諸大名のうち抹茶を所望した諸大名等にも
碾茶の茶壺が届けられていたことがわかっています。
著名なところでは加賀前田家や出雲松平家など。
そんなにも美味だったのでしょうか。
可能なら、その頃の抹茶を飲んでみたいという衝動に
駆られてなりません。

5 これは少し余談ですが
このように、碾茶を手に入れた上で
消費者が自分で茶臼を挽いて抹茶にするということは
大正時代や昭和初期まで行われていました。
広く一般に、抹茶という商品が流通し始めたのは
その後のことです。
そのため、特に京都、金沢や松江のような
抹茶を珍重してきた歴史を持つ都市では
家の藏に茶臼があるという家庭も
探せば多くあるのではないかと思います。

これからも、月一回程度のペースになるかと思いますが
コラムを綴っていきますので、ご覧くださいませ。

 

参考文献
「抹茶の研究」 桑原秀樹
「江戸時代の宇治茶師」 穴田小夜子
「近世公文書論」 大石学 編