お茶を淹れる道具の話Ⅻ~淹れて飲める道具 その後~

2022年7月28日のコラムにもご紹介した、淹れて飲める道具。

茶葉をカップに浸したまま飲み
お茶が減ったらお湯を足すことを繰り返す飲用法。
写真のような形でなくても、湯のみでもカップでもワンカップでも、なんでも可能です。

これは中国で従来から行われている方法です。
中国では、それこそビアカップのような大きな筒状のカップに緑茶を入れ、湯を注ぎます。
茶葉が表面に多少浮いていようがあまり気にせず飲み、湯を足して長持ちさせ、日がな飲みます。
水筒で同じことをする場合も多いです。

私は当初、この飲み方は大変簡単にできる飲み方だと思いました。
これからお茶を知り、いろいろ飲んでみたいという人にもぴったりで
今までお茶は難しくて手が出ないと思っている人もとっつきやすいと予測しました。

というのも
カップ一つあればできる。お茶のさまざまな道具がなくても始めやすい。
洗うのも楽チン。
お湯を足すだけだから、家事やデスクワークの合間でもできる。
一回茶葉を入れるだけでもつから経済的でもある。
このように思ったからです。

この飲用法を広めたい。お茶が身近にあることで
心豊かに日常を過ごせる人が一人でも増えてほしいと願い
ちょうど一年ほど前からモニターを募りました。
モニターを引き受けてくださった方々には、その飲用法を試すと同時に
周辺の人にもお話してもらいました。

しかし
モニタリング結果や、ご来店のお客様にご提案してきた反応をみる中で
私の予測は大きな間違いだったことがわかりました。

今回は、店主がこの飲用法に付けた名称と
この飲用法が本当に向いている人の傾向について綴ります。

名称は「壺中茶(こちゅうちゃ)」としました

壺中茶(こちゅうちゃ)、その出典は、中国の「後漢書」。
その時代の物語集のような書物です。
その中に、「壺中日月長(こちゅうじつげつながし)」として記載されます。
これは道教の物語だそうです。
さらに後漢書を読んだ禅宗の僧侶、虚堂智愚の語録にも
「壺中日月長」は記されています。

いずれにしても、「壺中日月長」自体を解釈することは
壮大すぎて、とてもできません。

しかしながら、仏教を個人的に学ぶ弊店店主は
「壺中」というのは、高田好胤和上(法隆寺や薬師寺のお坊さんだった方)のいう
「かたよらない心 こだわらない心 とらわれない心」の壺の中の世界
「日月流」というのは、自分の安心できる時間と
解釈できるのではないかと考えています。

さらにかみ砕いて…
お茶を飲んでいる時間は、自分の時間。
何より安らげる時間であって欲しいという願いを
壺中という単語に込めました。

壺中茶が向いている人の傾向

端的に言うと、「お茶を、既に日常的に飲用する人で、ややズボラな人」です。

この飲用法は、外観が見慣れないため
これから新たにお茶を知ろうとする人には新規性がありすぎます。
既に日常的にお茶を飲用し、茶葉を見慣れ、触り慣れている人なら
まだ、理解の範囲内におさまるようです。

ズボラにも様々な意味があります。
まず、どちらかというと面倒くさがりの人かもしれません。
また、お茶を飲む時に茶葉がお茶とともに口に入ってきたとしても気にしない、とか
お茶の温度が多少下がったり上がったりしても許容できる、とか
お茶が多少濃かったり薄かったりしても許容できる、とか
時間の移ろいとともにお茶自体も移ろい、次第には薄くなり茶葉も色あせていく
その変化を、それはそれで良いものとして、受け止められる、とか。

ズボラと申しましたが、言い換えるとそれは大人の余裕であり余白でもあると思います。
日々の中で、様々な予想外なことが起こっても
それはそれとして受け止められる寛大さとも言えるかと。

事実、お客様にこの飲用法をお勧めした際に
「あ、それ、毎日やってます」という人も少なくないのですが
そうおっしゃる人は皆、年齢性別を問わず、落ち着いていて、温厚で
細かいことや多少の失敗は許してくれそうな(と推測)人たちでした。

一年もかかりましたが、多くの方々の協力のおかげでこの結論にたどり着くことができました。
これからも、この飲用法を知ることで日々がより豊かになる人が増えますよう
地道に、広めていきたいと思います。

皆さま、良い連休をお過ごしください。