お茶を淹れる道具の話Ⅷ
~横手急須の背景Ⅲ~

日本における後手急須

高遊外は売茶の際に急尾焼を用いました。
ここでふと疑問が起こります。
高遊外は隠元禅師の伝えた黄檗宗の禅僧です。
工夫茶の本場、福建省に発祥する宗派を学ぶ人が
後手や上手の茶壺の使用法を知らなかったはずがない。
なぜ、後手や上手の茶壺を使わなかったのでしょうか。

この理由は玉露の発祥した頃の日本の茶文化を知ることで解けてきます。
高遊外の頃にはまだ製造されていなかった玉露。
それが生まれるのは19世紀に入ってからのこと。
釜炒り茶や煎茶は高い湯温で扱って美味しいお茶ですが
玉露は湯温を下げる必要があります。

「前代の煎淹の法には急焼式の茶瓶が適し、玉露を用ひる淹茶には宜興茶壺の好いことは言ふを俟たない」(長谷川瀟々居「煎茶志」)
とされることからもわかるように、
玉露を淹れるようになった時に
初めて日本でも小さい後手茶壺でお茶を抽出するという方法が広まったようです。

玉露は湯温を下げて扱うお茶だ
→急尾焼に玉露の茶葉を入れるのは相応しくない
→玉露は茶壺で扱うのがちょうど良い
こうしてようやく後手の茶壺も使われ始めました。

とはいえ、玉露を日常的に飲用するのは一部の愛好家。
後手茶壺は一般庶民の知るところではなかったでしょう。

急須

煎じる/煮出す茶から淹れる/抽出する茶に
完全に移行したのは19世紀半ばか
幕末~近代に下る可能性が高いとされています。
この時、一台で二役こなしていた横手の道具は
①涼炉の上でお湯を沸かす道具(湯沸かし)と
②茶葉を入れてお湯を注ぎ、茶葉を蒸らし、その後抽出するための道具(急須)の
二台に分かれました。

現在、①の涼炉の上でお湯を沸かす道具の方は
(煎茶道で用いられるのを除いては)
やかんやポットが担っています。
急須の多くは焼き締め陶器や磁器です。
耐火性や汎用性を考慮すると、火にかけずに使用する方が相応しいことは言うまでもありません。
また、いくら高遊外の影響力が強かったとはいえ
当時煎茶は高級料亭で振る舞われたようなお茶。
そもそも、庶民にまで浸透したわけではありません。
日本各地で飲用される日常のお茶はずっと
やかんや釜で煮出し続けられた番茶たち。
(かくいう金沢の棒茶はやかんで煮出す家庭も多いこと。
今にもその手法は息づいているのです。)
このように、少しハイソであり続けた横手の湯沸かし道具が
煎茶道では使われ続けるのも自明の理です。

一方②の、抽出する道具としての急須は
徐々に庶民まで一般化しました。
明治初期には広範に普及したと言われもしますが
各家庭に一台とまで行き渡ったのは戦後、高度経済成長期の頃です。
急須が本当に普及したのはここ50~60年程度なのです。
なお急須という名も誰が使い始めたかわかっていません。

まとめ

長々と書いてきましたが、まとめです。

日本では、お茶は煮出すものだった。
日本では釜ややかんといったお湯を沸かす道具で
お茶を煮出して飲んできた。
そこに見たこともないシュッとした横手の湯沸かし道具
急尾焼がやってきた。
急尾焼を使ってお茶を淹れることもできるのか。 
彼が振る舞っていた釜炒り茶や煎茶は
必ずしも煮出さなくてもいいようだ。
火にかけず、ただお湯に漬けている方が適している。
でも、この横に手のついた道具は使いやすい。
では、茶葉を浸す道具としてそのまま使い続けましょう。

終わりに

韓国でも横手の急須が使われていると聞きます。
韓国の茶文化は勉強途中。
何か見えてきたら、またお伝えします。
長文、お読みくださりありがとうございました。

 

参考文献
「煎茶入門」小川八重子 著
「煎茶志」長谷川瀟々居 著