お茶を淹れる道具の話Ⅷ
~横手急須の背景Ⅱ~

最初の横手の道具

ついに横手の道具が中国より日本に伝来したのは
江戸中期以前。
急尾焼(きびしょ)と呼ばれました。

お湯やお酒を沸かす道具として伝わりましたが
前述のように、日本ではお茶=煎じる/煮出すもの。
お湯を沸かす道具は、そのままお茶の茶葉を入れ煮出す
お茶道具にも見えたに違いありません。
お茶を煮出して飲んでいた日本だからこそ
急尾焼を見て、そのように発想したことでしょう。

高遊外(売茶翁)

急焼尾について語る時、避けて通れない人がいます。
煎茶道の始祖とも言われる高遊外(1675~1763)

始めは黄檗宗の僧でした。61歳の頃から売茶の業を始め
高遊外と称するようになったのはその後です。
お茶を売り歩く翁ということから
売茶翁(ばいさおう)とも呼ばれます。こちらの方が
どこかで聞いたことがある呼び名かもしれません。

田能村竹田「茶説図譜」にはこう述べられます。
「風炉・急尾焼ヲ用ヒテ烹点飲啜スルニ至ツテハ、遊外高翁(売茶翁)ヨリ始ル。」

また、高遊外は
「茶銭は黄金百鎰より半文銭までくれしだい。ただにて飲むも勝手なり。ただよほかはまけ申さず。」 と
値段を決めずに道行く人々に広くお茶を提供ました。

彼がこのような売茶活動を始めた頃、煎茶製法が確立。
そのため高遊外は、始めは釜炒り茶を
後には煎茶も振る舞いました。

それまでお茶といえば、やかんや釜で煮出すものでした。
言ってみれば、もっちゃりした道具で扱われる日常の飲料。
一方高遊外は、やかんや釜より小さく
形も異なる最新アイテムである急尾焼を用いて
確立したばかりの飲み物である煎茶をも
人々に振る舞いました。
煮出すお茶は茶色っぽくなりますが
煎茶は山吹色~緑色。見た目も別物です。
その様子はさぞ粋な光景として映ったことでしょう。
こうしてお茶だけでなく急尾焼(急須)も
広く人目に触れていきました。

高遊外の頃の急尾焼

お茶を振る舞う時、高遊外は二つの急尾焼を用いたと
言われています。
一つには茶葉を投じて急須として使い
もう一つでは湯を沸かし続ける、やかんやポットとして使う。
この二台を交互に用いていました。

同時代の日本のお茶好きたちも急尾焼を用いて
①茶葉を入れて涼炉の上で煮出す(煎じる)か
②涼炉の上で湯を沸かし、湯が沸いた時点で茶葉を投じ
すぐに火から下ろして抽出する
このいずれかの方法でお茶を楽しみました。

このように、茶葉を投じた後すぐに火からおろすという
扱いが多く見られ始めるのもこの頃の面白いところ。
日本では長らくお茶は煮出すものでした。
しかし、釜炒り茶や煎茶は
煮出すより蒸らす方が美味しいと気付かれていったため
作り方から変化していったのです。
釜釜炒り茶は香り高いお茶。煮出すと香りは揮発します。
煎茶は渋味も出やすいお茶。煮出したら渋くなります。
煮出す/煎じる→淹れる(淹茶法)への過渡期です。

とはいえこの頃はテレビもインターネットもなく
物事はゆっくり変化していますので
この後100年ほどは、二つの方法は混在していました。
(続く)

 

参考文献
「中国喫茶文化史」布目 潮渢 著
「茶の世界史」松崎 芳郎 著
「現代中国茶文化考」王 静 著