お茶を淹れる道具の話Ⅷ
~横手急須の背景Ⅰ~

日本茶を淹れる道具の代表選手、横手急須。
横に持ち手がある、一般的な日本の緑茶用の急須です。(下図)

なぜ横に手があるのか疑問に感じたことはあるでしょうか。
実は急須の世界では、横手は少数派。
世界的には、急須(中国では茶壺・チャフウ)や
ティーポットの持ち手は後ろにあります。

今回は、日本で愛用される急須の背景について書きます。

最初の横手の道具

横に持ち手がある道具は、
唐代晩年の中国に見ることができます。
中国語で側把單柄壺というもの。
越窯や長沙窯で作られていました。
同時期に、茶碗や茶末盒(茶缶)も作られており
唐代、湖南付近でお茶がよく飲まれたことがわかります。

しかしその頃、お湯で茶葉を蒸らし
抽出して飲む葉茶/リーフティーはまだ作られていません。
その頃のお茶は粉末のお茶。
正確には、製茶した後に硬く押し固められた茶葉の塊を
薬研で潰し砕き粉末にしたものを茶碗に入れ
茶筅のような道具で撹拌して飲んでいました。
この側把單柄壺は、お湯を茶碗に注ぐために
使われていたのです。

後手茶壺の誕生

明代になると葉茶/リーフティーが生まれました。
唐代や宋代の葉を固める製茶には長い時間を要するので
煩雑すぎるとして禁止されるのです。
中国の末茶(粉末のお茶)はこの時に途絶えます。
そして現在と同じようなリーフタイプの釜炒り茶が
作られ始めます。
この時、茶葉にお湯を注ぎ、茶葉を蒸らし、
その後抽出するための道具が必要になりました。
茶壺(チャフウ。中国の急須)の誕生です。
それは、後ろや上に持ち手がある道具でした。(下図)

( 上図の持ち手ほどくりくりした物は珍しいです。
デザインの一つとしてご覧ください。)
そして、その道具にお湯を注ぐ道具の方は、
これまでと変わらず、横手の道具。
火に直接かけてお湯を沸かしそのお湯を茶壺に注ぐための
道具でした。
中国では、横手の道具でお茶を淹れるという習慣は
生まれなかったのです。

隠元茶罐(いんげんちゃかん)

やがて日本にも、中国の道具が伝来します。
後手の茶壺の伝来についてはっきりとわかっているのは
京都にある黄檗宗萬福寺の開祖である隠元禅師が
1654年にもたらした紫泥茶罐。隠元茶罐と呼ばれる物。
茶罐といっても茶葉を保存する茶缶ではなく茶壺です。
高さが19cmもある大振りの物でした。

今も萬福寺に保管されますが、底に焼けた跡があります。
なんと、茶壺なのに火にかけて使用されたというのです。
ということは
1.茶罐に茶葉を入れたまま煮出して(煎じて)抽出する
2.茶罐を涼炉の上に置いてお湯を沸かし、
お湯が沸いた時点で茶葉を入れ
すぐに火から下ろして蒸らして抽出する
このいずれか或いは両方の様に使われたと推測できます。

しかし不思議だと思いませんか?
隠元禅師は中国の人。それならば
横手の道具など湯沸かし用の道具を用いて湯を沸かし
その湯を、後手の茶罐に入れ、
蒸らして飲用したのではないかと思うのです。

おそらく火にかけて使用したのは
隠元の周辺や後世の人々ではないでしょうか。
そして火にかけるという使用法の理由は、
日本では隠元以前から
お茶は煮出して飲むものだったことが理由に違いない。

日本各地にある地方の番茶は
淹茶法(蒸らす方法)では十分に味が出なかったこともあり
煎じて飲用する薬と同じように扱われていました。
茶袋と称する布製の袋に葉を入れ
その茶袋をやかんや釜で煮出して飲用されていました。
お茶の葉っぱとは煮出すものという意識が根底にあり
お湯を沸かす道具とお茶を淹れる道具は
同一と扱われたのではないでしょうか。

この、火にかけるという使用法が
日本に横手の道具を普及させる決め手となります。

隠元茶罐のような大振りの道具は珍しく
それ以降伝来した様子はありません。
中国でも清代にかけて茶壺は小振りになっていきます。
小振りの方が湯量の加減がしやすく
また茶壺の中を見ながらお茶が淹れやすいためです。

終わりに

とても長くなってしまったので次回と分けて掲載します。
火にかけるという使用法が
日本に横手の道具を普及させていく様子は次回に。

 

参考文献
「芳茗遠播 亜州茶文化」
国立故宮博物院
「煎茶志」長谷川瀟々居